北野邦生戯曲集「脱走」他12篇(脱走:一幕三場)・・・一部公開

北野邦生 作  脱   走     一幕三場

 

 

登場人物
 城本(若い日本兵
 舜阮・シュンゲン(老医師) 
 林嫩・リンネン(舜阮の孫娘) 
 都臨・ツーリン(部落の男) 
 安沙・アンシャー(都臨の娘) 
 麗陽・レイヨウ(部落の女)
 中国兵一、二
 部落の男一、二
 部落の女一、二

 

一九四四年の秋。
中国は桂林に近い農民部落。
舜阮の家の前。
舞台上手に、粗末な住まいの一部と物干し場が見える。
正面奥には、山脈が連なっている。
家の前には、腰掛け用の丸太がある。

 

銃砲の音。
それが次第に遠ざかり静寂が戻る。
若い娘の澄んだ歌声が聞こえてくる。

 

   第一場

 

静かに幕が開く。
明るい日差しが辺りを照らしている。
林嫩が歌を口ずさみながら、洗濯物を持って出てくると、物干し竿に掛け始める。
舜阮が家の中から出てきて丸太に腰を下ろす。
洗濯物を掛け終わった林嫩が舜阮に寄り添う。

 

舜阮:いい気持ちじゃ。
林嫩:本当にいい天気。ほら、向こうの山が、青い空にくっきり浮いて見えるわ。まるで平和な感じ。あの山の向こうで、日本と中国の兵隊が戦っているなんて。
舜阮:北京では幸せじゃった。病院の経営も順調じゃったし。それが、あの野蛮な奴らの手で。奴らは、強盗、盗賊なんじゃ。
林嫩:おじいちゃん。
舜阮:わしらの幸せを奪い取って、それでも足りなくて、中国の街という街に銃を向けておる。人間なのか日本人は。
林嫩:私、小さかったけど、北京の街と別れる時、道端の草花に何度も頬ずりしてきたの覚えてる。
舜阮:北京を出て南京、南京もすぐ占領されて、漢口へ逃げた。漢口に入って間もなく、お前のお母さんが。
林嫩:お母さんのお葬式も済ませないうちに、漢口の街も占領されて。
舜阮:お前のお母さんは、本当にかわいそうじゃった。自分が食べないで、お前に食べさせようとしていた。お前のお父さんの戦死を知ってからというもの、日増しに衰えてしまって。わしらを、こんな不幸な目に遭わせたのは誰じゃ、あの、日本の犬どもじゃ。
林嫩:人間が人間を殺すなんて、とても考えられない。